目が、オ レはカシコイのだけれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだけれども、位が高いと思はぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。山だからというて 高いとも思わず、海だとて広いとも深いとも思わず一切合財、不知の活動じゃ。野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人ー野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞 かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。-みなた だ自分が自分を自分しているのである。
宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。
ケツの穴 だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというて威張らんでもいい。 総理大臣が一番エライと思うているからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口はできぬ。みな天上天下唯我独尊である。
一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。
ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちを持たそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。
世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラクみせようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。そんなことで世間では、人間を見失う。
宗教には連帯責任というのはない。私ひとりである。
凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む。
世の中に表章ということがあるが、ロクなことではない。表彰されると「はばかりながら・・・・・」という染汚がおこりがちだから。
仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧という。飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためではない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思っている。
見わたすかぎり自分ぎりで、自分でないものは何もない。「オレのダルイのを手伝ってくれ。オレのイタイのを代わってくれ」・・・ そうはいかぬ。
三昧とは、自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。
われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。
人間は動揺が大好きである。映画の広告の看板を見ても、動揺した顔ばかりがかいてある。仏法は動揺しないことである。ところが世の中では、何のこともないのに、大騒動をやっている。
グループ呆けの中でのみしか見えぬのが凡夫の性である。
グループができると、その中に麻痺状態が発生して、良い悪いがわからなくなってしまう。われわれが世の中を遠ざかっているのも逃避しているのではない。この麻痺状態をおこしたくないからである。昔から山野に才を求むというが、この山野とは無色透明な世界のことだ。
周囲のノボセにノボセにこと。これこそ智慧である。どの思想と、どの組合にもひきこまれてはならぬ。人間みたいな阿呆な奴を相手にせんこっちゃ。
「グループ呆け」というのがある。そして呆けたのを経験とこころえておる。ひとり透明になって呆けぬことが必要だ。坐禅はこのグループからご免こうむり「シュッケイ」(失敬、出繋、出家)して一人になることである。
いま時分 の奴のやることは、みな集団をつくって、アタマ数でゆこうとする。ところがどこの集団もグループ呆けばかり、金がほしいというのもグループ呆けなら、エラ クなりたいというのもグループ呆け。いわんや党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。そんなグループ呆けをやめて自分ぎりの自分になることが座禅で ある。
男女同権という言葉が出てくるのは夫婦喧嘩する時の言葉で、夫婦仲がいい時には、男女同権も何もあったものじゃない。
人生とは矛盾である。「あいつあんなことしやがっった」と言いながら、じつは自分もしたいことだったり。
人生とは複雑なものである。天から火が降ってくるような戦争の時もあれば、炬燵の中で昼寝しているような時もある。また徹夜で働かねばならん時もあれば、酒を飲んでいる時もある。こういう人生を、仏さまの教えによって、どう始末してゆくかが仏法である。
子供がぐずると、「このワカラン奴」と言うて叱っておるが、なあに、そう叱る親たちもみなワカラン奴なのである。これを無明という。
教育、教育というて、何かと思えば、みな凡夫に仕立てることばかり。
喜怒哀楽の波がたっておらなければ、どうせにゃならぬということはない。
動物園の猿をみているより、飼いっぱなしの人間を見ている方がおもしろい。
今の世の 中の人間は、オカシナことに自分の人生を、しみじみと考えてみたことがない。われわれ過去永劫の昔から、何ぞ煮えきらぬものを持ってきており、「あの人も そうじゃ、この人もそうじゃ」と、それで平気でいるだけである。これがグループ呆けというもんじゃ。人並みでありさえすればいいと思うとる。サトリとは、 自分の人生を、しっかりと持つことでなければならぬ。グループ呆けがなくなることである。
私は和(わ)ということをいろいろ考えたが、日本のことを「大和(やまと)」というのは、是はいわゆる「大和(だいわ)」ということです。つまり我々の最後の理想、一切の根本的最後の理想がこの「大和(だいわ)」という欲求であらねばならぬわけなんだ。(「禅談」より)
人と神との和が出来なければ人間と人間との和ということは、皮相なものにすぎない。・・・好きなときは好きだというようなものだ。(「禅談」より)
この和ということが我々の宗教、道徳、精神文化の理想であって、これより外に理想はないわけである。(「禅談」より)
たいがい人間のやることは、べつにはっきりした人生観があってやっているのではない。ただ肩の凝った時にトクホン貼ってみるぐらいの、まにあわせの人生観でやっているのでしかない。
世の中は、いつもアアシタイ、コウシタイ。してみたら、ナンデモナイことばかりである。
乞食でも笑うことがあり、億万長者でも泣くことがある。ナーニ、たいしたことはないんじゃ。
仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。
凡夫は五 欲六塵にウロタエテおる。そして好きだとか嫌いだとか、得したとか損したとか、エライとかエラクナイとか、金があるとかないとか、勝ったとか負けたとか。 ところがそんなこと結局ナンニモナラヌということがわかって、そうして最後に「ナンニモナラヌ座禅をタダスル」ということにゆきつかざるをえないのであ る。
昆虫学者がガラス張りの中に昆虫を入れて、それらが物を食うたり、とも食いしたり、つるんだり、鳴いたりしているのをいちいち見ておるように、われわれ生活のいちいちも、じつは「真実」からすっかりのぞかれておるのだ。
われわれにはユガミがホンモノのような顔してひっついていおる。
人の物を盗めば、もはやそれだけでりっぱな泥棒に決まっておるのに、今の奴は警官がつかまえ、検事がしらべ、判事が判決をくだし、牢屋へ入ってはじめて罪人になるのだと思うておる。
石川五右衛門だけがヌスットであって、ちょっと出来心で他人の物を盗った奴はヌスットではないというわけではない。ちょっと出来心で他人の物を盗ってもりっぱなヌスットである。それと同じくお釈迦さまだけが仏なのではない。仏のマネして座禅すれば、仏である。
みんなが違った業(ごう)を持っているのだが、みんな同じく仏さんにひっぱられてゆくことが大切だ。心身脱落とは我のツッパリを捨てて仏の教えを信じ、仏さまにひっぱられてゆくことである。
生きておる間はオレとオマエと当然あるかのごとく思うて、背丈比べしたり、お化粧したり大騒ぎする。しかし本当はオレとオマエという二つはないのである。それは死んでみればようわかる。
世の中に心を労せにゃならぬことは何もない。妄想分別の何も役に立たぬことが、「役に立たぬ」と決まるだけである。
人間はいつの間にか「私」が入ってしまう。「ああよかった」何がよかったのかといえば「私がよかった」というだけの話じゃ。
どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもゆきづまる。これもゆきづまる。どの方向へ向いていってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人である。
坐禅とは、われわれのナマニク(生肉)でかためたホトケである。
凡夫のナマミを最高にせりあげたのが只管打坐である。
飢え死するつもりで坐禅しておればいい。「法輪転ずれば食輪転ず」などということをアテにしておるとワケが違う。法輪さえ転ずれば食輪などどうでもいいんじゃ。
「みんな壁の方むいて坐っていてーアレいったい何をやっているんじゃ。坐禅みたいなとぼけたこと」と言うた奴がおる。ー娑婆から見たら、みんなこれじゃ。
「坐禅して何になるか」 この「何になるか」という問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何になったか?おまえが生まれて何になった? 何になるものは一つもない。
仏教的人生観がハッキリしてからでなければ、真の坐禅修行にはならぬ。
正法とは無所得ということ。邪法とは有所得ということ。 われわれはできるだけ損をせねばならぬ。
どんな奇特玄妙なこと、どんな神秘的体験を味わったと言うても、一生その味わいが続くものではない。
「なんにもならんこと」を自信を持ってしておるところが、おもしろくはないか。
よう「禅をやって、ちょっとマシな人間になろうと思いまして」と言うてくるのがある。坐禅は人間の修養ではない。人間の廃業である。
無量無辺というものが、この人間の欲に物足りたものであるはずがない。
坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅に邪魔され、坐禅にひきずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。
われわれは意識に味をもたしなれているので、無味無色の仏法にはなかなか入りにくい。
坐禅しておると、よう妄念がおこりますと言うてくる人があるが、妄念がおこるということがわかるのは、波風がおさまりノボセが下がったからである。
妄念を気にするのは、「凡夫」が気にするだけである。
坐禅がありがたいと言えば、まだまだ。 「お蔭さん」とも何とも言わず、ナントモナイ所に不染汚(ふぜんな)の坐禅がある。
仏法で一番イヤラシイとするのは染汚(ぜんな)ということである。重役とか社長とか会長とかーそういう顔するのが染汚である。この染汚が清められることそれが祇管(しかん)である。
坐禅というものはツミアゲルものではない。親鸞聖人も「ツミアゲル念仏」を捨てられたのじゃ。そうして「ツミアゲル修行」を、真宗では「自力根性」と言う。
小乗とは自他の心をおこした所にある。小乗の解脱はつくりものである。
ええことすると、「ええことをした、した」と、ベッタリそれがひっつく。サトレば「サトッタ、サトッタ」と、またこれがベッタリそれがひっつく。ええことしたり、サトッタリせんほうがええんじゃ。サッパリしておらねばならぬ。足をおろしてはならぬ。
凡夫が仏法をみれば、どれだけいっても、仏法で「人間のネウチをつけよう」とするばかり。
坐禅はええな。坐禅は大死人の姿じゃから。
われわれはサトリをひらくために修行するのではない。サトリにひきずりまわされて修行するのである。
仏法は人間のもがきで得られるようなものではない。
坐禅しながら仏になろうと思うのは、たとえば故郷へ帰るのに、早く帰りたい早く帰りたいと、汽車に乗っていながら汽車の中でかけだしいているようなもんじゃ。
坐禅している時には、自分が成道しているとも何とも思わなくとも、成道しているのである。
人間がサトッタら、人間の話である。人間の話でないのが、坐禅である。
胃を忘れているのが胃の健全なることである。サトリ、サトリと忘れられないのはサトッテおらぬ証拠じゃ。
「サトッタ」と言うても、よう悪魔が通力を得たにすぎん場合がある。
「われと仏とスキマがなく、なんともない」という所までいっていないと、人間、気がねがいり、くたびれ、ゆきづまる。
サトリとは泥棒が空家に入ったようなもんじゃ。盗る物がない。逃げなくともいい。追いかけてくる者もない。 だからはなはだモノタリナイ。
サトリ、サトリとーほんに、ちっさいものをサトリと思うているが、そんなものは意識の問題で、意識がちょっと変化したら、もう何でもないもなになってしまう。
お釈迦様はおれだけ悟ったとはおっしゃらぬ。有情非情同時成道なのだから。ところがみんなは、そんな連帯的サトリでは物足らぬ。個人持ちの悟り、ご利益が好き。つまり「我」が好きなのだ。
よう「これでようございますか、ようございますか」と見解を呈してセガム奴がある。他人に問う間は本物ではない。他人に証明されて、サトッタつもりになっている奴もおる。他人に問わいでも、自分が、「行きつく所へゆきついたら」いいじゃないか。
「酒を飲むと酔う」と聞いて「なるほどそうか」と思うて、酔っぱらいのマネをして、酒を飲んだつもりになっているようなサトリがある。
今の科学的文化は、人間のもっとも下等な意識をもととして発達しておるにすぎぬということを忘れてはならぬ。
文化、文化と言うけれど、ただ煩悩に念が入っただけのものでしかないじゃないか。煩悩のシワが、いくら念が入っても、仏教から言えば、進歩とも文明とも言わぬ。いったいいま進歩、進歩と言うが、どっちゃ向いて進んでいるか。
こんなに利口ぶって、こんなにバカになってしもうたのが、人間というバカモノである。
智慧とは、行きつくところへ行きついた判断を、つねに持つことである。
科学は人からモライモノの上にツミカサネがきくからどんどん進歩しよる。それに反し人間そのものは、人からモライモノできぬし、ツミカサネもできぬから、ちっとも偉うならぬ。だから頑是ない餓鬼が凶器をふりまわすような格好になって、危なうて仕様がない。
あほが電子計算機をあやつり、ノロマがジェット機に乗り、気違いがミサイルの発射ボタンをにぎっておる。それが今日の問題なんじゃ。
原爆、水爆は味方を救うことができても、敵を救うことはできぬ。敵も味方も救うことができるのは坐禅のみである。
ツクリモノの世界は、いつでも変わるに決まっておる。文化とはツクリモノが発達したにすぎぬ。だから文化とは悲劇である。どこへいってもマチガイのないもの。これこそ生命あるものであり、かぎりない幅を持つものである。
しずかに落ち着いてよく読んでみれば、マルクスもエンゲルスも「餌の分配」の話でしかない。
なんやら人間にはいつも忘れられぬものがある。金がありやがると金があると思い。頭がいいと頭がいいと思い、器量がいいと器量がいいと思って忘れられぬ。そしてこれが門口に出ばって邪魔しよる。
「おれ」と言うて、いったい何年つっぱれるか問題である。死ねばすぐこの肉体は品物になってしまう。
よう「この目でみた」と確かそうに言いよるが、その目がアヤシイんじゃ。凡夫の目じゃないか。
自分とい うものはキマッタものではない。「わしの心はこんな心」そんなもの、ありゃせん。わしも坊主になったればこそ、仏法の言葉をなんたらかんたら言うておるけ れども、これがもし侠客の親分にでもなっていたらどうか。「野郎バラシちゃえ」ぐらいなことを言っていたに相違ない。
別嬪だってヘチマだって、八十まで生かしておけば同じこと。洞然明白(とうねんめいはく)というのが本来の姿である。
たいていの人間は忙しい、忙しいと言うておる。なんで忙しいかと言えば、煩悩に使われて忙しいだけの話じゃ。坐禅しておればヒマである。天下一のヒマ人になるのが坐禅人である。
人間の仕事を何もせぬのが坐禅である。
坐禅の内容に浮世をあらしめれば仏法も豊富、ただの浮世の苦労をいくらしたって、人生を豊富にするものではない。
人間の知識は煩悩と業の窓口からのぞいた世界でしかない。最後の世界は、この煩悩と業から見た世界をすべて「やめる」こっちゃ。
必然に向かって文句なしに受け取るのがサトリである。大悟とは、「必然が必然と決まったこと」である。必然とは宇宙とつづきだからである。
亡者が出てくるとよくいうが、それも生きているものがある間だけのことで、もし生きているものがなくなると、亡者も化けて出てこない。亡者は生きているものの道具であると、「二十唯識」には出ている。
夢を見ていながら、これは夢だとはなかなかわからぬ。頬っぺたをつまんでみたら痛い。その痛いのも夢なんじゃ。夢と夢のつきあいだから、夢が夢ともわからぬ。
現実、現実と言うが、これみな夢である。夢の中での現実でしかない。革命とか戦争とか言うと、ドエライことのように思うておるが、やはり夢の中のモガキである。死んでみれば「夢だったな」とようわかる。それを生きているうちにカタヅカナイのが凡夫というものである。
意識に映った影を、またむしかえしてみるのを妄想という。
天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人も施す。施し合い。われわれはこの布施し合う中にのみ、生きておる。ありがたいと思うても思わいでも、そうなのである。
一切のものにケチをつける必要はない。
実際に腹が減ってもおらんのに「食えぬ」と言う。それだけで腹が減ってしまう。みんなコトバによってウナサレテいるのだ。名前でヤッサモッサやりおるのじゃ。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上とこの六道は、ただわれわれの「ノボセの目盛り」じゃ。ほんとうにノボセが下がったら、仏である。
道心とは、「ひと」のために「おのれ」を忘れること。無道心とは、「おのれ」のために「ひと」を忘れること。
サトリとは損すること。マヨイとは得すること。
自分がむさぼらぬという一時をもって、十方に供養する。これほど大きな供養はない。
「くれ」と言うのでもないのに、施し恵まれる風景は、「むしり合いの世界」と違うて、じつに涼しい風景であり、じつに広大無辺なる風景である。
少住為佳(しょうじゅういか)ちょっと一服すればいい。人間をちょっと一服したのが仏じゃ。人間がエラクなったのが仏じゃないぞ。
良寛さまがどこまでも涼しいのは、テをつかわぬからである。
「こうし て、こうすりゃ、こうなるぞ」というのは、娑婆の話で、仏法ではない。よう「人さまの面倒をみておくこともな、人ごとじゃあらへん。うちの子供もあること だで。こうしておけば、いつか子供が面倒みてもらわんならんこともあるさかい」これが娑婆の話である。「ナンニモナラヌことをタダする」これは容易なこと ではない。これを行ずるのが、心身脱落、脱落心身ということじゃ。
天国といえば天国というカコイができる。神も忘れた神、神すら失ったところに、真の神がある。
坐禅すればいいと言っても腹がへるから飯を食わねばならぬ。金もなくなるから托鉢にも出ねばならぬ。ところがややもすると一本調子になりたがる。しかしいくらよいことでも一本調子ではダメじゃ。一切のものにとらわれぬことだ。自在無礙の問題である。
差別のわからぬのはバカだし、差別が気になるのは凡夫だ。
金閣寺でも法隆寺の金堂でも、みんな坊主が修行するためにあるのじゃない。ただ坊主が遊んで食えるというだけの話じゃ。
金をためねばならにような坊さんは不徳であるということは言うまでもない。・・・・・・坊主が金をためねばならぬようになったら、それだけ欠点がわが身のうちにあるからじゃ。
坊主は金 のないのが自慢である。良寛さんが死んだ時、金をためておったというウワサがある。それに対して、「そんなことはない。死んだ時の帳面にも、これこの通 り」と言うひとがある。これは良寛さんを庇(かば)った言葉である。してみればやはり坊主に金のあるのは恥なんじゃ。
どんなプロからみても「見劣りせぬ」のが出家者であらねばならぬ。しかるにブルぶろうとする坊主や寺の嬶(かかあ)のあるのは、これまたどういうわけか。
傍観者の観念遊戯 それを戯論(けろん)という。傍観者の観念遊戯ではダメじゃ。全身全霊をもってとびこまにゃ。
世間の人 は仏道修行とは、修行をつんでランプの火をほそめるようにだんだん煩悩をほそめっていって、最後にパッと消すぐらいに思うておる。そうじゃない。大乗の修 行は、「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす。」いかに も人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ。
立派なことを言う奴のことを「あれは粥飯(しゅくはん)の熱気だ」と言うことがある。栄養が足ってエラソウなことが言えるという意味じゃ。
柳は緑、花は紅 アタリマエというのが仏法である。ところが人間は、そのうえによけいなモノをかぶせる。いいとか、悪いとか、得くとか損とか。
坐禅は善も悪もこえたものである。修身の話ではない。共産主義も資本主義もみんなヤンダところに坐禅はある。
自分というものは自分をもちこたえてゆくことはできない。自分が自分を断念した時かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。
われわれの生まれてから後におぼえたものを捨てさえすればよい。
無我、無心と言うても、べつにボーッと意識がなくなることではない。無心とは必然に反抗せぬことである。つまり宇宙とのつづきに服従することだ。宇宙とのつづきで働くことである。
一切のものが自分の内容である。ゆえに他人のおもわくも考えて行動せねばならぬ。
思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。
年寄りは経験、経験と言うて、昔のくせをふりまわしておる。どこがどう変わっても、変わりのないものを般若の智慧という。
工夫とは般若の智慧をピカピカにみがきあげることじゃ。考え込むことではない。
仏法は主観的事実である。それがただ個人的解脱になってしまったのが小乗である。大乗はそうではない。仏とツギ目がなくなると同時に、地獄の衆生ともツギ目なしになることである。
十万億土とは「自分から自分への距離」である。
ここに石油ストーブがあっても、マッチ一本は、はりこまねば暖かくはならぬ。みんな仏性があると言うても、あるだけでは何ともならぬ。仏性に火をつけねばならぬ。
人間でない方から人間の方を見なおしてみれば、どうしても本当のことはわからない。
たとえ現実のお釈迦さまを見ても、凡夫が見ればダメである。唯仏与仏 仏眼をもって仏を見るのでなければ。
「これで よい」という世界があるものではない。それなのにどこぞに「これでいい」という世界があるかと思うて、それを求めてウロウロ歩きまわる。ウロウロしたって 仕様がないやないか。それじゃ泣き寝入りするか。そうじゃない。ウロウロしない世界にドカッと坐っておるこっちゃ。
仏道とは、もとからキマッテいることを信ずる(澄浄する)だけである。非思量するだけである。
沢木興道Sawaki Kôdô
Cap comentari:
Publica un comentari a l'entrada